2013年4月14日、三國連太郎が死去した。
『ビルマの竪琴』『飢餓海峡』『犬神家の一族』『ひかりゴケ』『釣りバカ日誌』など、多くの映画やドラマに出演し、25回もの受賞歴を持つ名優であった。
時には役柄のために10本もの歯を抜くことをいとわないほど演技に没頭し、そのあまりにのめり込む様子から怪優・奇人とも評された。
往年の俳優の多くがそうであったように、三國連太郎も様々なロマンスが取り沙汰された俳優だった。
4度の結婚歴を持ち、多くの女優との恋仲も噂されたが、最も愛した女優は太地喜和子であったと公言していた。
その太地喜和子は『白い巨塔』『火まつり』『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』などの出演作を持つ女優であるが、彼女も「本当に愛した人は三國さんだけだった」との言葉を残している。
新人時代から裸になることをためらわないほどの大胆さと、独特な妖艶さを併せ持もつ女優で、彼女も演技に全てを捧げるような生涯を送った。
太地喜和子は1992年、舞台『唐人お吉ものがたり』の巡回公演中に不慮の事故で亡くなっている。
彼女はこの舞台で主人公のお吉を演じていたが、都市伝説ではお吉を演じたことと太地喜和子の死には深い関係があると言われている。
唐人お吉の物語は、幕末から明治の時代を生きた実在の女性「斉藤きち」の悲劇的な生涯を描いたものである。
太地喜和子と斎藤きち、二人の生涯には不思議な共通点が伺えるのだ。
斎藤きちは1841年(天保12年)に船大工の家庭の元に生まれるが、わずか7歳の時に芸者の元に養子に出され、14歳の時にはその養母が亡くなり、下田で芸者として一人で生きることになる。
きちはその美貌から「新内明烏(しんないあけがらす)のお吉」と呼ばれ、下田随一の人気芸者となった。
だが、その美貌が悲劇を生む事になってしまう。
1857年(安政4年)、この当時、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田にいて幕府との間で交渉を行っていた。
だが、慣れない土地で疲弊したのか、元来病弱だったハリスは病に倒れ、看護婦が必要な状況だった。
幕府の元に看護婦要請の連絡が入るのだが、幕府はこの申し出を交渉に利用しようと画策する。
妾をあてがい、色仕掛けでハリスを籠絡しようとしたのである。
そこで白羽の矢がたったのがお吉であった。
だが、当時は外国人に仕えることは恥だと考えられており、お吉には幼馴染みの婚約者・鶴松の存在もあったため、幕府のこの話を当初断っていた。
幕府の役人は断りにもめげず、なんどもお吉の説得にあたった。
「お国のために力を貸してくれ」と諭し、さらには鶴末に幕府の仕事を回すと迫った。
お吉はついに根負けしてこの話を受ける事を決心した。周囲の人間はお吉に同情しながら送り出した。
やってきたお吉を見たハリスは、すぐに幕府の考えを見抜き憤慨する。
ハリスは生涯独身を貫くほどの敬虔なキリスト教徒であり、このような工作は最も嫌うところであった。
それでもハリスにはどうしても看護の人手が必要であり、お吉を雇うことにした。
2ヶ月後にハリスの体調が回復した際にお吉はお役御免となり、芸者に戻った。
幕府が狙ったようなやましい関係にはならなかった。だが、彼女を待っていたのは偏見や嫉妬にまみれた侮辱的な視線であった。
お吉は妾として奉公したわけではなかったのに、異人に肌を許した女だとして「唐人」と呼び、蔑んだのである。
送り出す際に同情していた人々までがお吉を冷遇した。これはお吉が受け取った給金が相当に高額だったため、嫉妬したせいだと言われている。
あれほどの人気を誇った芸者の仕事も嘘のように無くなり、とても下田でやっていける状況ではなかった。
この頃からお吉は酒に溺れるようになり、鶴松との結婚もあきらめ下田から離れた。
東海道を東に転々とし、9年後、28歳のお吉は横浜に移り住んだ。ここで偶然にも鶴松と再会する。
ふたりは共に暮らすようになり、お吉は芸者を辞めた。
数年後にふたりは下田に戻り、お吉は髪結い業を始める。だが、お吉に対する偏見は健在だった。
汚いものを見るかのような視線を送られ、罵倒する人間もいまだ大勢いた。
お吉は再び酒に溺れる生活を送るようになり、鶴松との間で喧嘩が絶えなくなる。
結婚生活は破綻し、その直後、鶴松は病死する。
悲嘆に暮れるお吉は下田を離れ、三島で芸者の道に戻った。
ある金持ちが援助の手を差し伸べ、その金で下田で小料理屋を始める。
だが、いまだ「唐人」と揶揄する人々に酒に酔ったお吉が怒ってあばれるような形でたびたび問題を起こす。
店はわずか2年で潰れてしまう。
もう援助してくれるような人間もおらず、お吉は物乞いにまで身をやつす。
病気にまでかかり、すべてに絶望したお吉は大雨の振る日に、川に身を投げ自殺する。48年の悲劇的な生涯だった。
お吉に対する偏見は死後も続いた。穢れるとして川から引き上げられた遺体に誰も触れようとせず、3日間も河原に放置され続けたという。
このお吉の生涯は、1928年に発表された十一谷義三郎の小説「唐人お吉」で広く知られるようになった。
幾度も映画化や演劇化され様々な形で演じられるようになった。
そして、1992年太地喜和子が事故死した当時、このお吉を演じ、巡回公演の真っ最中であった。
このお吉と太地喜和子の生涯には共通点が多い。
太地も生まれてすぐに養子に出されており、10代で東映の新人俳優オーディションに合格し、早くして芸の道を歩む事になった。
新人時代から、どんな要求にも答える根性のある女優として知られ、時代劇を中心に多くの役を演じるようになる。
25歳の時に出演した映画「藪の中の黒猫」ではヌードになっているが、撮影中、太地があまりに大胆に脱ぐので共演者が赤面する中、彼女だけは平然としていたという。
また、太地喜和子は若い頃から酒豪として知られており、数々の豪快なエピソードが残されている。
31歳の時に秋野太作と結婚するが8ヶ月で離婚。以後は芸の道に生涯を捧げることを決心し、浮き名を流すことはあっても籍を入れるようなことはなかった。
その後は映画賞の受賞などを経て、蜷川幸雄など第一線の演出家の舞台などに出演し続け、演劇界の伝説的な存在である杉村春子の後継者とまで言われた。
そして、1992年10月13日、『唐人お吉ものがたり』の静岡県伊東市での公演に訪れた太地は不慮の事故に見舞われる。
飲んだ帰りに乗った車が海に落下し、帰らぬ人となったのだ。享年48歳であった。
実母と生き別れになった幼少期や若くして芸事の道に入ったこと。結婚したがすぐに別れていること。
また酒とも関係が深く、死を迎えたのも同じ静岡県の水辺である。そして、48年で生涯に幕を閉じたのまで同じであった。
太地はかねてからお吉役を演じることを熱望していたようで、舞台の共演者によると、公演中の太地はまるでお吉そのものだったという。
このように多くの共通点があることから、太地喜和子にお吉が乗り移ってしまったと言われるようになったのだ
事故には不可解な点もあるとされている。当日の行動と事故の様子を確認しておこう。
その日、舞台を終えた太地は後輩の劇団員2人と共に近くに飲みに出た。
2件ほどハシゴした太地らは、パブのママをしていた女性と知り合い意気投合する。
日を跨いでも飲み続け、帰りはママに送ってもらうことになった。
太地は助手席に乗り、帰りの道すがら太地がふと「海を見たい」と漏らした。
この言葉を受けてママは伊東市の観光桟橋まで車を走らせた。
ママの知り合いが船長をしていたので、船に乗せてもらおうとしたのだ。
しかし、知り合いはいなかった。
桟橋をバックで戻ろうとした途中、車が桟橋から落下。車は海に落下してしまう。
ママと劇団員3名は車から抜け出し海面に顔を出したが、太地だけは浮かんでこなかった。
このとき午前2時半。目撃者の通報により、レスキュー隊がすぐに駆けつけた。
レスキュー隊は素潜りで太地の救助に向かった。
ライトを照らしながら車内を覗き込むと、太地はなぜか後部座席でうつぶせの恰好で天井付近に漂っていた。
運転席と後部座席の左側の窓は開いていた。
海面に引き上げられたが、すでに呼吸は無く脈も止まっていた。懸命な心肺蘇生措置が行われたが息を吹き返すことはなかった。
3人が助かり、太地喜和子だけが死んだのは酒に酔っていたうえに泳げなかったからだと言われているが、前述したように非常に酒に強く、その日も意識を失うほどには飲んでいなかったと見られている。
また泳げなかったという話には異論も存在する。
元水泳選手の木原美知子にスイミングを習っており、完全なカナヅチではなかったという。
また、海面に沈んだと言っても、車は海面からわずか2.5mぐらいのところにあり、車から抜け出せばすぐに浮上する事が出来る状態だった。
現に、同乗していた劇団員のひとりも泳ぎが苦手だったようだが、彼は自力で海面に浮上している。
運転席の窓は空いていたので彼女もそこから抜け出せたはずなのだが、そうせずに後部座席から発見されたのは不可解である。
このような状況だっただめ、太地喜和子だけが生還できなかった点は疑問をもたれるものになったのであった。
一説には、彼女の死には当時抱えていたある悩みが関係しているとも言われている。
実は太地喜和子は緑内障を患っており、あと数年で失明すると医師から言われていたというのだ。
女優を生涯の仕事だと決めていた太地にとって、失明は命を断たれるに等しいものであっただろう。
そのため、車が海に転落した時に、彼女はふっと生還する事をあきらめてしまったのではないかとも言われている。
だが、あらゆることに前向きな彼女が死をあきらめるとは思えないとする意見も多く、結局のところ、真相は不明なままである。
このように太地喜和子が都市伝説で取り沙汰されるのも、彼女が多くの人を演技で魅了した名女優であり、今後も大きな期待を寄せられていた人物だったことと無縁ではないだろう。
スクリーンや舞台で見せた演技によって心を揺り動かされた人物の姿がもう見れないのかと思うと、まるで知人を失った時のように、ひどく寂しい思いに駆られるものである。
そうした寂しさと謎の残る死の状況が、太地喜和子とお吉を重ね合わせる都市伝説を生んだのでははないだろうか。