2013年は「ジブリの年」だと言われている。
これは、通常、数年おきの夏に1本づつ上映されてきたジブリ作品(「となりのトトロ」と「蛍の墓」の例があるが、この2本は同時上映のため興行としてのカウントは1本である)が、今年は夏と秋で2本上映されることから鈴木プロデューサーが命名したものであるが、宮崎駿と高畑勲の両監督作品が楽しめる年とあって、まさにその言葉通り、ジブリ作品で大いに盛り上がる年となるであろう。
その先陣を切り、7月20日から公開されたのが、宮崎駿監督による「風立ちぬ」である。
零戦の設計技師・堀越二郎をモデルにした人物の半生が描かれるとのことだが、実在の人物を元にした作品はジブリ初の試みであり、また内容的にも大人向けの作品になっているようだ。
本原稿は公開前に執筆しているため、筆者はまだ未見なのだが、非常に楽しみな作品である。
本作を鑑賞するにあたり、過去の宮崎作品を見返す方々も多いことだろう。
今回は「崖の上のポニョ」に関する都市伝説を紹介してみようと思う。
「崖の上のポニョ」はファンの間でも賛否両論ある作品であるが、筆者は大変おもしろく鑑賞する事が出来た。
本作では人間になりたいポニョとそれを止めようとする父親フジモトの姿なども描かれているが、それこそが宮崎駿から出された息子への回答だという話が都市伝説で囁かれている。
回答というからには問いかけが存在する。
その問いかけは息子・宮崎吾朗の監督デビュー作となった「ゲド戦記」に描かれているという。
その問いかけに触れる前に、宮崎吾朗の経歴を確認しておきたい。
「ゲド戦記」で宮崎吾朗は監督して抜擢されたわけだが、彼はそれまでアニメの制作に関わってきたわけではなく、長年、公園や都市の緑地化に関する設計の仕事を行っていた。
その後、ジブリ美術館の設立の際に鈴木プロデューサーに請われ、設計に携わるようになり、ジブリに籍を移す。
そして、父の宮崎駿がかねてから映画化を希望していた「ゲド戦記」にようやく映画化の許可が下り、その企画会議に参加して本作に関わるようになった。
だが、このころすでに宮崎駿は「ゲド戦記」映画化の熱を失っており、誰が監督するのかが問題になった。
鈴木プロデューサーの強い推挙と本人の意志もあり、宮崎吾朗は監督を引き受けるわけだが、そこには相当な苦労があったようである。
職人集団であるジブリ内部からは、それまでアニメに関わったことのない人間が監督することに対する批判があり、外部からもはたして監督など出来るのかという疑問の声もあった。
さらには父親である宮崎駿からも「監督など出来るわけがない」と猛反対され、のちに宮崎駿は監督から降板させるよう鈴木プロデューサーに直談判まで行っている。
つまり、父親を含めた各方面からの外圧によって、「自分が監督で良いのか」という問いに悩まされながら監督をすることになったのだ。
そんな宮崎吾朗の葛藤に対する決意こそが宮崎駿への問いかけであるという。
それは映画の冒頭、主人公で王子のアレンが自分の父である国王を殺害しようとするシーンにあるという。
これはアーシュラ・K・ル=グウィンが書いた原作には存在しないシーンである。
当初、本作の脚本は宮崎駿が担当する予定であったが結局は書かず、「シュナの旅」を元に宮崎吾朗自身の手で行った(「シュナの旅」にも親殺しのシーンはない)。
また、作中では父親を殺害するに至った動機は描かれていない。
宮崎吾朗は父殺しという過激なシーンを説明もなく、なぜ挿入したのか。
ここに彼の決意が隠されているという。
このシーンのアレンは宮崎吾朗であり、国王は宮崎駿である。
宮崎吾朗は作中で父である宮崎駿を殺害することで、これからは親子としてではなく、作品で闘う作家同士であるということを明言しているというのだ。
それは同時に、多くの批判や反対を押しのけてでも監督してやっていくという強い意志表示でもある。
つまり、「ゲド戦記」は人間が抱える闇の部分との対峙というテーマ性を持つ作品であると同時に、監督しての意志を表明した作品なのだという。
「ゲド戦記」で宮崎吾朗が提示した問いかけに対し、「崖の上のポニョ」で宮崎駿が出した答えは、前述の「人間になりたいポニョとそれを止めようとする父親の姿」にある。
本来は王女として平穏無事に暮らせるポニョが、苦労することも多い人間という存在になることを父のフジモトが止めようとするように、息子・吾朗が監督という批判や重圧の絶えない仕事をすることに対して、いまだ止めようとする親心が現れているというのだ。
だが、結局ポニョは人間として生きて行くことを選び、フジモトもその決断を受け入れる。
これと符号するように、宮崎駿も息子・吾朗の監督してやっていくという決意を受け入れた節が見受けられる。
監督二作目「コクリコ坂から」の公開に先立ち、宮崎駿は監督しての宮崎吾朗について「一本映画を作ればもう監督である」と発言しており、完成試写を観た後に感想を聞かれ「おれをもっと驚かせてみろ」と答えている。
これらの発言からも、今は一人の映画監督として認めていることが伺えるのである。
このように「ゲド戦記」と「崖の上のポニョ」の二作品は、全く異なった物語でありながら、そこには現実世界の親と子の関係性が見い出せるのだ。
こうした親子の視点を抜きにしても、「崖の上のポニョ」はまさに宮崎駿の集大成とも言える傑作であった。
「崖の上のポニョ」に関して筆者は、内外タイムスの求めに応じ、リップサービスたっぷりにジョークを踏まえた深読みをして見せた。
前述した親子という視点とはまた異なったものであるが、そのコメントを全文引用してみよう。
今年夏の大ヒット映画「崖の上のポニョ」。
ご存じアニメ映画の巨匠、宮崎駿監督の最新作だが、この映画に込められたメッセージを山口敏太郎がオカルト作家の目線で読み解いた。
ポニョには、宮崎駿監督のあるメッセージが隠されている。
そんなウワサを聞いた、オカルト作家・山口敏太郎は「崖の上のポニョ」を鑑賞した。
感想は、率直に言っておもしろ過ぎる。まさに集大成の傑作である。さて、この作品に秘められた宮崎駿のメッセージとは何なのか。
まずポニョの父・フジモト。彼は人間を捨て、魔法を操る海の住人となった。
フジモトは、ポニョが人間社会の醜い部分に染ることを嫌悪している。
また、フジモトのキャラデザイン、乗り物、海中の家、全てが手塚治虫チックだ。つまり、このフジモトは宮崎監督の手塚治虫へのリスペクトの反映ではないだろうか。
よく考えてみると、陸上でのフジモトは消毒剤のポンプを担ぎ、海水を撒きながらやってくる。これは医者であった手塚治虫を意味しているのではないか。
人間社会の醜さをなげき、魔法の力で、海が豊かであった時代を再現しようとするロマンチストの父・フジモトは、アニメという魔法に理想を求めた手塚ワールドの考えそのものである。
そのフジモトが作った結界を破り、外に飛び出たのがポニョであり、宮崎駿であった。
宮崎駿は先人・手塚のようにロマンチックなものを魔法=アニメには求めなかった。
「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のようにリアルな人間の性(さが)を描写することも厭わなかった。
宮崎駿、つまりポニョの偉大なる冒険であったのだ。
さらに、明らかに海を越えてやってくる白人と思えるポニョの母親は、ディズニーではないだろうか。
フジモトの、妻に対する「あの人」という呼称には、明らかに憧れがこもっている。
手塚治が生前、ディズニーに憧れを持っていたのは事実だし、ディズニーは人魚姫という作品を制作している。
つまり、ポニョの父・フジモトは、手塚治虫であり、ポニョの母である人魚は、ディズニーなのだ。この2人から生まれたのがポニョ、つまり宮崎駿監督である。
そして、この作品には、手塚とディズニーへのリスペクトと深い愛情が込められているのだ。
どちらにしろ「崖の上のポニョ」は悪くない。まさに宮崎アニメの総決算ではないだろうか。
直ちに見るべし、この映画に秘められたメッセージを読み取るのもひとつのミステリーなのだ。
以上が筆者が述べた「崖の上のポニョ」のコメントであった。
このコメントに対して、ブログやメールなどでかなり過激な反論を頂いた。
だが、鈴木プロデューサーも「作品の見方や解釈は観客にゆだねる」という趣旨の発言をしている通り、作品に対する見方は多種多様にあって良いはずであり、前述のコメントはあくまでも筆者はこう解釈したというひとつの意見に過ぎないものである。
もちろん、それに対し反論もあるのは当然で、そうして意見を述べ合う事もまた作品を楽しむ態度のひとつだと筆者は思う。
しかし、自分の方が正しい意見を述べているとして、他者の意見を一方的につぶそうとしてしまうのは、あまりに了見が狭くないだろうか。
また、最近はジブリ作品に限らず、それがどんな作品であるか、まるで正解探しをするかのような態度が見受けられたり、他人の意見をそのまま自分の意見として語る事も多いようであるが、筆者はそうした態度や見方にもったいなさを感じてしまう。
見た人の経験や知識を元に、自由に作品を解釈すれば良いのであり、そこに作品を鑑賞する際の、ひとつの楽しみがあると思う。
特に近年の宮崎駿作品には以前のような定まった物語性を超えた自由さがあり、様々な解釈が出来るため 非常に見応えがある。
最新作の「風立ちぬ」ではどのような物語が展開されるのか、楽しみにしながら鑑賞する日を待ちたいと思う。