渋谷NHKの近くに2.26事件の慰霊碑がある。
だがこの慰霊碑には怨念がこもっている。故に毎夜毎夜、青年将校の霊は周囲を徘徊する。
タレントの稲川淳二が語っているようにNHKのスタジオでは、青年将校の霊と遭遇したタレントや業界関係者が多いのである。
特に怨霊たちが廊下を軍靴であるく足音は、霊感のない人でも聞こえている。
一方で青年将校の霊は、渋谷の町を守る役割をしている。
つまり、彼ら怨霊がこの帝都・東京を守護しているのだ。
また学校の怪談で昭和初期から噂されている存在に「赤マント」と呼ばれるものがある。
以前紹介した話であるが、確認のため振り返っておく。
これは、学生がトイレに入っていると現れる怪人で、怪しげな洋装をしていて、赤いマントが特徴であった。
そのマントを翻し、学生たちにこうささやくのだ。
「赤いマントはいらないか」、或いはこんな風にもささやくといわれている。
「赤いマントはいらないか、青いマントはいらないか」、この言葉に返答してはいけない。
返答すると殺されてしまうのだ。
「赤いマントが欲しい」といった場合は、血だらけにされて殺され、「青いマントがほしい」と言うと、血を吸われて真っ青にされて殺されてしまう。
この赤マントは全国の学校にいる。
この赤マントは青年将校がモデルになった怪人だというのだ。
果たして、2.26事件の怨霊伝説は本当なのだろうか。
赤マントと青年将校の関係とは、どのようなものなのだろうか。
昭和11年2月26日、青年将校たちが、昭和維新・天皇親政を唱え、決起した2.26事件だが、この反乱将校たちの霊を奉った慰霊碑が、東京都渋谷区神南にある。
この慰霊碑は、陸軍刑務所の敷地内にあり、2.26事件の首謀者であり処刑された青年将校・民間人17名の霊を慰撫し、その呪いを封印し、帝都の護りにつかせる為に設置された。
だが、その敷地に隣接するNHKのスタジオでは、青年将校たちの霊が度々目撃されていると噂されている。
かの怪談の名手である稲川淳二もこの2.26事件の青年将校の霊について語っているし、多くの怪談が囁かれている。
こんな話が「読むのが怖い 謎の怪奇ミステリー」(にちぶん文庫 平成6年3月25日)に掲載されている。
局の関係者があるスタジオの近くにあるエレベーターに乗った。
すると、旧日本軍の軍服を来た人物と乗り合わせた。
新人俳優なのか、妙にかしこまっている。
てっきりドラマの撮影かと思い、エレベーターを降りるときに振り向くと、軍服の男の姿は消えていた。
またあるディレクターが、撮影を深夜まで行い、終了後トイレに入って手を洗っていると、廊下を歩く軍靴の響きが耳に入った。
その足音がトイレの前で止まったので、ふと手洗い場の鏡を見ると、軍人がトイレの中を覗いているのがわかった。
ぎょっとして、振り返ったがそこには誰もいなかった。
この2.26事件の青年将校と三島由紀夫に関して美輪明宏が興味深い話をしている。
「霊の実在」(美輪明宏 明日香出版社 昭和59年8月1日)によると、生前の三島由紀夫には、2.26事件で処刑された軍人の磯部浅一が憑依し、自衛隊に決起を求めるような行動に出たとされている。
なるほど、磯部浅一の霊が憑依していたのであれば、デビュー当時は、線の細い文学青年のイメージの強かった三島由紀夫が、段々とボクシングやウエイトリフティングに凝る武骨なイメージに変わっていったのがわかるような気がする。
これは筆者が見聞した余談だが、私がかつて日本通運に勤めていた頃、市ヶ谷の自衛隊における運送業務を営業部の先輩社員が担当していた。
この頃「三島由紀夫の割腹した部屋をそのまま移築し保存する」というプロジェクトがあったのだが、その後どうなったのであろうか。
歴史的な遺物なので保管し、後世に残してもらいたいものである。
なお、2.26事件に関与して処刑された人間のうち、磯部浅一の遺骨のみ、郷里に帰されることなく回向院に収められた。
これは、本人が望んだことではあるが、回向院はねずみ小僧を筆頭に江戸期より多くの罪人が葬られている。
磯部浅一は、自ら罪人となって帝都を霊的に護る道を選んだのであろうか。
なんとも悲しい話ではないか。
磯部の墓は、同じく愛国者でありながら処刑されてしまった吉田松陰の墓の隣に鎮座している。
なおこの2.26事件は国民に多大な衝撃を与えたらしく、いくつかの都市伝説を生んだ可能性が指摘されている。
「伝染る「怖い話」」(宝島社 平成11年8月9日)によると、「赤マント」というトイレや学校に出現する怪人のイメージを生みだしたのは、反乱軍にいた中橋基明という赤マントを着用した将校ではないかという指摘をしている。
中橋は高橋是清の手足を切り落としたと言われている。
確かにその資格は十分にありそうだ。
2006年にNHKの不祥事が続き、料金の不払い運動が起きたことがあった。
当時、筆者はふと気づいたのだが、2006年は2.26事件からちょうど70年目にあたる節目の年であったのだ。