これから紹介するのは、昭和の初め頃に東京都の八王子で語られていた、ある魔物に関する話である。
八王子市のある町では、6月になるとある怪異が起こると言われていた。
真夜中の町にどこからともなく動物が駆けてくるような音が響きわたるのだ。
「タッタカ タッタカ タッタカ」
馬が蹄を鳴らして駆けてくる音である。
昭和初期の警察は乗り物として馬を利用することもあったので、馬がいる事自体は不思議ではない。
だが、土地の者は真夜中に響くこの蹄の音に恐怖し、決して外に出たりはしなかった。
それはこの土地にまつわる、ある伝説が残されていたためであった。
戦国時代、その町がある場所には北条氏の支城のひとつである八王子城が存在していた。
この八王子城は今は史跡となっているのだが、心霊スポットとして名高い場所である。
昭和の初めに鳴り響いた馬の蹄と八王子城が心霊スポットとなった背景には深い関係があったのだ。
八王子城が建てられたのは1587年のことであるが、そのわずか3年後に廃城させられることになる。
それは天下の趨勢が決定されようとしていた当時の時代背景が大きく関係している。
当時は、本能寺の変を経て、豊臣秀吉が覇権を手中に治めようとしている頃であった。
もはや、誰もが秀吉との衝突をさけようとするなか、八王子城を支城にもつ北条氏政は、秀吉に屈服する事を拒み続けていた。
これに業を煮やした秀吉は、北条氏の討伐を決める。
秀吉の軍勢は北条の領地に攻め込み、八王子城に侵攻した。
この時、氏政と兵力のほとんどは小田原城に移っており、八王子城の城中にいたのは、氏政と家臣の家族や農民など、約3000人の非戦闘員だけであった。
かたや秀吉の軍勢は1万5000人の屈強な武士たちである。彼我の戦力差は歴然としていた。
北条勢はほとんど抵抗できないまま蹂躙され、あっという間に城を包囲されてしまった。
絶体絶命の状況の中、城中にいた家臣たちは姫の身を案じていた。
「もはや落城は避けられぬ。姫様だけでもなんとかならんかの」
「そうよの、姫様だけはなんとか無事にお逃げいただかねば」
夜になり、一旦攻撃の手が緩められた隙に、家臣たちは姫を馬に乗せた。
その馬は幾多の戦をくぐり抜けて来た、城中一と誉れ高い軍馬であった。
「この馬ならば敵の包囲を突破してくれるじゃろうて」
家臣たちは姫に声をかけた。
「姫様、絶対に馬から手を離してはなりませぬぞ」
「わかりました。でも、おまえたちはどうなるのです」
家臣たちは笑いながらこう答えた。
「我らは城と共に討ち死にいたしましょう」
そう言うと、家臣のひとりが馬の尻を叩いた。
重要な任務を任されている事が分かっているのか、馬はもの凄い勢いで駆け出し、夜の闇を切り裂いていった。
秀吉勢の陣中に、怒濤の如く鳴り響く蹄の音が聞こえて来た。
音がする方を見ると、見た事もないような猛烈な勢いで駆けてくる馬が見えた。
その勢いはまさに神馬の如き凄まじさであった。
「馬上に誰か乗っているぞ」
その声を受けて1人の武士が進み出て、太刀を抜いた。
「氏政の血縁の者に違いない。捕まえて手柄にしてやる」
その武士は恐ろしい勢いで向かってくる馬にひるみもせず、ゆっくりと太刀を構えた。
馬は怒濤の勢いで突っ込んでくる。一方の武士は泰然とし微動だにしない。
すれ違い様、武士は横薙ぎに斬りつけた。
鮮血がほとばしり、馬の首が宙空を舞う。
首を斬られた馬はその場に崩れ落ちるはずである。
だが、首を跳ね飛ばされた馬は血を噴き出させながら、それまでとなんら変わることのない猛烈な勢いで駆け続けた。
陣中を突破しても走り続け、夜の闇に消えていった。
それ以来、この馬も乗っていた姫の姿も、誰も見た者はいないのだという。
八王子城の中にいた人間たちはその後どうなったのか。
やはり抵抗むなしく八王子城は落とされる事になるのだが、城中にいた人々はあまりにもむごたらしい目に遭うことになった。
このような城攻めの場合、特に非戦闘員は捕虜にされて生かされる例が多いのだが、この時はほとんどの人間が殺されてしまい、さらには首を斬り取られ持ち去られてしまう。
北条氏政の本隊がいる小田原城の前で、並べるためである。
家族の者の無惨な姿を晒すことで、北条勢の戦意喪失を狙ったのであった。
死んだ人間の首が切り取られて行く中、まだ生き残っていた人々は無様な姿をさらすくらいならと考え、川で自刃していった。
そのため、下流にある滝は三日三晩にわたり、真っ赤に染まり続けたと言われている。
こうした話が残されていたため、町に蹄の音を響かせているのは、きっと八王子城の霊だとして町の人々を恐怖させたのであった。
そのため、誰も闇夜に響く音の正体を確かめようとはしなかったのだ。
怪異が幾晩も続いたある夜のこと、1人の青年が音の正体を確かめてやろうと、家の戸をわずかに開けて待ち構えていた。
青年は霊の存在など信じておらず、きっと誰かのいたずらに違いないと踏んでいたのである。
青年はこの手で迷惑者を捕まえてやろうと、正義感に燃えながら身を潜めていた。
すると、夜霧の彼方から蹄の音が聞こえて来た。
音のする方をじっと見据えていると、だんだんと馬に乗った人物の姿が見えて来た。
(もう少しで捕まえられる)
そう意気込む青年の前に現れたのは…真っ白で無表情な美女と首の無い馬であった。
青年はその場で失禁し、ガクガクと体を震わせると意識を失ってしまったのだという。
この首の無い馬にのった女を、土地の人間は「夜行さん」と呼び恐れた。
「夜行さん」と言えば、徳島県に伝承されている馬に乗った一つ目の鬼が思い出される。
徳島の「夜行さん」は人を投げたり蹴飛ばしたりするのだが、頭に草履を乗せれば助かると言われている。
このように徳島の「夜行さん」はどこかわいげのある妖怪なのだが、八王子の「夜行さん」は恐ろしい存在である。
もし、遭遇してしまうと確実に不幸に見舞われてしまうのだという。
実は「夜行さん」だと思われる存在が、近年でも八王子に出没している。
深夜に蹄の音が鳴り響くことがあったり、上半身が女で下半身が馬という、まるでケンタウロスのような存在が目撃されているのだ。
数百年の永きに渡り添い遂げ続けたことで、女と馬は融合してしまったのだろうか。