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洞爺丸事故の都市伝説

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洞爺丸事故の都市伝説

1954年(昭和29年)9月26日、青森-函館間を運行する青函連絡船の中でも、その充実した設備などから「海峡の女王」と呼ばれた大型客船「洞爺丸」が沈没した。
この事故では千人以上に及ぶ死者を出しており、1912年の北大西洋における「タイタニック号沈没事件」、1865年のミシシッピ川での「サルタナ号沈没事件」に次ぐ、世界海難事故史上3番目の大惨事となってしまった。
この日、台風15号が四国に多大な被害を与え、佐渡を経て北海道へと向かっていた。
正午ごろ、総重量3,898tの大型連絡船「洞爺丸」は、函館港で天候の様子を見ながら、出港するかどうかの検討を重ねていた。
そんな中、先に出港した小型連絡船「青函丸」が引き返してきた。
小型客船では天候が回復しても、波の影響で安全な航海が出来ない可能性があったため、「青函丸」の乗客も「洞爺丸」に移され、船内はすし詰め状態となった。
17時頃、晴れ間が覗いた。
台風の目が通過したものだと判断し、風と波の影響が無くなくなるであろう、40分後に出港することが決定された。

17時40分、乗員乗客合わせ1337名を乗せた洞爺丸は出港した。
だが、予測に反し、出航後すぐに非常に強い風に煽られ始めた。
船長は進むことは困難だと判断し、その場に碇を降ろし停泊した。
しかし、風は穏やかになるどころかさらに激しさを増し、風速50メートルの暴風が海面を激しく波打たせた。
この凄まじい風と猛烈な海面のうねりによって、碇を降ろしたまま船が流される「走碇」状態となってしまう。
「走碇」は船のコントロールが出来なくなる非常に危険な状態であった。
船が操縦困難な状況に陥っている中、浸水が始まる。
浸水は機関室にまで及び、船の航行は完全に不可能となる。
洞爺丸はSOS信号を発し救助を求めるが、洞爺丸でさえ遭難する悪天候のなか、救助に向かえる船は無かった。
洞爺丸の船長は、沈没だけは回避しようと七重浜への座礁を試みようとするが、操縦不能となった船では座礁することすらままならない状態であった。
それでも、洞爺丸は海岸まであと数百メートルのところにまでたどり着く。
だが、こうした奮闘むなしく、出航から5時間が経った22時45分、洞爺丸は沈没した。

この洞爺丸の事故では1155名の犠牲者を出し、日本の海難事故史上最大のものとなったが、この事件後、いくつもの幽霊話しが噂されるようになった。
例えばこんな話である。
ある日の真夜中、七重浜の国道で一人の女性が手をあげた。
タクシー運転手はこんな夜中に女性一人とは変だと不審に思いつつ、車を止めた。
近くで見ると、何故か女は頭からずぶ濡れになっていた。
タクシーは女を乗せて、目的地まで走った。
運転手は到着したことを知らせ、後部座席を振り返った。
だが、そこは誰もいなかった。
女の居たシートは、ぐっしょりと濡れていた。
地元の人々は、洞爺丸の犠牲者の霊魂が海から自宅まで帰ったのだと噂した。

洞爺丸の目的地であった青森にも、洞爺丸の犠牲者の幽霊は姿を現したと言われている。
こんな話が語られているのだ。
職員が宿直室で寝ていると、「トントン、トントン」となにやらノックの音がする。
どうやら、誰かが待合室の窓ガラスを叩いているようであった。
「こんな夜中に誰がノックしてるんだ?」
眠い目を擦りながら、職員が見にいくと…
窓ガラス越しに、ずぶ濡れの手が見える。
それは1人のものではなく、まるでたくさんの人々が助けを求めているように、ガラス窓をノックする無数の手があった。
「うわあーっ」
職員は逃げ帰り、翌朝まで宿直室で震えていたという。
翌朝もう一度、窓ガラスを確認してみると、確かに無数の手形が残されていた。
更に怪談は続く。
この事故の教訓を受けて、後年により安全な連絡船が建造された。
この新型船であれば、もう危険はないはずだとして、多くの人間がこの船に期待をかけていた。
だがここでも奇怪な事件が起こる。
定期点検時に、新船のプロペラから奇妙な傷跡が発見されたのだ。
それは、まるで爪で引っ掻いたような無数の傷跡であった。
「犠牲者たちは、幽霊となって今も海中を彷徨っている」
人々はそう噂した。

後年、洞爺丸を沈没させた台風15号は「洞爺丸台風」と呼ばれるようになるが、それほどまでに「洞爺丸沈没事故」のインパクトは大きいものであったのだ。
イメージ的にこの航路では、「洞爺丸」だけが沈没したかに思われがちだが、実際には他の多くの船が沈没している。
「北見丸」(2,920t)、連絡貨物船の「十勝丸」(2,910t)、「第11青函丸」(3,140t)連絡貨物船「日高丸」(2,930t)。
いずれも貨物船であったが、乗員たちの大部分が命を落としている。
それ故、「洞爺丸台風」による犠牲者が幽霊になったとしても、必ずしも「洞爺丸」の犠牲者とは限らない。
だが、先入観とは恐ろしいもので、この事故以来、付近で目撃されたずぶ濡れの幽霊は、全て「洞爺丸」の幽霊とされている。
なお、前述したタクシーを拾いシートを濡らして消える幽霊の話は、良く聞く話であるが、「洞爺丸」のこの怪談が最初であるとの指摘をメールでもらったことがある。
確かに、筆者はこれ以前のタクシー幽霊の事例が思い浮かばない。
だが、江戸期の書物に出てくる「篭ぬけ幽霊」の話でも、篭が濡れているなど同様の話が語られていたと記憶している。
幽霊はカゴからタクシーに乗り換えたのかもしれない。
つまり、リアリティを保持するために幽霊談や妖怪談が時代に応じ、マイナーチェンジした可能性も考えられる。

洞爺丸が沈没した青函航路では、洞爺丸の事故以前からある噂が語られていたのだという。
この航路では夜間の運行中に、海に飛び込んで自殺する人が多く、自殺フェリーとか、自殺航路と呼ばれていたというのだ。
また、口の悪い人はこの事故の後、自殺した霊たちが集団になって洞爺丸を沈没させ、乗客を死にいざなったと噂していたらしい。
こうした話しからは、古くかこの航路で多くの人が亡くなっていることが推察されるが、いつの時代でも不気味な風説や流言が起きるものなのだと考えさせられる。

また、この事故では役所や警察、消防、病院の救助体制が緩慢であったため、随分と助かるはずの人が亡くなったのだという。
このような行政の対応に遅れが生じたという噂の背景には、鉄道の通行を可能にする青函トンネルの工事反対派を納得させるために、行政が一芝居うったというとんでもない話しがある。
つまり、青函トンネルの工事計画をうまく通すために、人々を見殺しにしたというのだ。
今で言うところの、事件の背後には権力者や国家の謀略があるという陰謀史観だが、いつの時代でも災害や事故の後は、政府の陰謀だとか、大企業の裏工作だという噂が広がる。
勿論、まったく根拠のない風説ではあるのはいうまでもない。

なお、今も犠牲者の霊は目撃されているらしい。
犠牲者の慰霊碑のあたりで、呆然としてたたずむ、ずぶ濡れの人が今も夜間に目撃されることがあるらしいのだ。
彼らにとって事故はまだ終わっていないのだろうか。
また都市伝説というよりも、シンクロニシティ(偶然の一致)のような事例も報告頂いている。
昭和29年9月26日23時50分ごろ、ラジオ東京(現TBSラジオ)の臨時ニュースで 「洞爺丸遭難」の第一報が報じられたのだが、その直後に流れた曲の題名は「SOS」というアルゼンチンタンゴであった。
この「SOS」という曲はゲンが悪く、この曲がかかると何かと不吉なことが起こるといわれていた。
都市伝説では洞爺丸事故を受けて「SOS」という曲が「コンデナ」という曲名に変更されたとも言われるが、実際に曲名が変更されたのは洞爺丸事故よりも20年以上も前のことである。
つまり、こじつけだったわけである。
だが、改名後も不穏な印象はぬぐいきれていない。
この「コンデナ」という言葉は、「有罪判決」という意味もある言葉なのである。

「洞爺丸」に乗船していながら、助かった人たちもいる。
「あの事件・事故に隠された 恐怖の偶然の一致」(TBSテレビ編著 二見文庫1993年3月25日)には、二名の生還者の談話がのっている。
会社の監査役だったNさんは、当時35歳で働き盛りであった。
函館、札幌、小樽の支店を廻り、青森から列車で東京に帰る予定を立てていた。
だが、いつまでもたって出航しない船に腹をたて、洞爺丸から降りようとした。
しかし、船員はタラップは降ろさないと言って聞かなかった。
困り果てたNさんは、乗員用の出入り口からこっそりと降りてしまった。
この行動が命を救ったのである。
また、このとき学生であったKさんも、青森の実家に帰るためフェリーに乗り込んでいたが、痺れを切らして作業員出入り口から降りてしまった。
だが、この時逆に「間に合ってよかった」と言いながら作業員口から、フェリーに乗り込んできた人たちもいたのだという。
一寸先の運命はわからないものである。

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