「おい、おまえ、狐ばばぁって知ってるか?」
そう聞いてきたのは、友人Nであった。
Nは幼馴染で、どこかすねたところのある男であった。
「狐ばばぁ、何いうとるんじゃ、アホとちゃうか、ここは徳島やぞ、狐なんかおらんわ」
私は、Nの軽口をいなすと笑った。
するとNは一瞬、口をとがらせると、反論した。
「うそちゃうって、ほんまに狐を拝んでいる婆ぁがおるんやって」
「ほんなことがあるかいな」
否定する私に向かってNは、狐ばばぁの話をしてくれた。
Nの話によると、眉山のふもとに一軒のあばら家があるという。
そのあばら家に、片目が不自由な老婆が住んでいた。
この老婆が、狐を使った呪術をすると、近所でも評判の老婆であった。
子供たちの目にも、その姿は明かに異様で、不気味に写った。
「あの、おばあさんは狐を使うから、注意しなさい」
「やばいわね、あの人を怒らせると、狐を使って復讐するのよ」
近在の主婦たちは、そう言って子供たちに警戒心を与えた。
だが、Nはその老婆に近づいた。
彼女が狐を使って行う呪術に興味があったのだ。
Nは老婆の家に度々通い、仲良くなると願い事をした。
「おばあちゃん、狐の魔法を見せてよ」
老婆はこの問いに、ふふふっと笑った。
そして、こう話を続けた。
「狐が見たいか、そうか、狐さまはな、お祈りを聞き届けてくれるとき、必ずお使いをよこす」
しゃがれた老婆の声にNは、興味をそそられた。
「お使いって、なに?」
「使いは狐そのものじゃ、使いはな、動物の狐の姿になってこの庵に遊びに来るんじゃ」
老婆は、かかかっと笑うと、祭壇を拝み始めた。
ある夜のこと、塾の帰りに老婆の家によったNは、お使いの姿を見てしまう。
いつものように老婆のあばら家で、狐の話を聞いていると、老婆が突如立ち上がった。
「おうおう、お使いさまがこられた」
Nはその言葉に全身が硬直した。ついに、狐の使いを見ることが出来るのだ。
嬉々として玄関に歩み寄る老婆。
Nも興奮を抑えきれない。
「よくおいでくだすった、よくおいでくだすった」
老婆が玄関を開けると、そこには一匹の狐が座っていた。
闇夜に、 ぽつんと浮かびあがる狐の姿。
物凄く鋭い視線で、狐がNを睨んだ。
狐の目は、何もかも見透かすような迫力があった。
「これを、おあがんなさい」
老婆は、油あげを狐に差し出すと、深くひれ伏した。
この時、狐の口元が笑ったように見えた。
「どうぞ、願いをかなえてください」
狐は、じろりとNの方を一瞥すると、油あげをくわえ、そのまま姿を消した。
後には静かな闇が、残るのみであった。
Nはその後、長ずるにつれ、生活が乱れ始める。
成人後には、借金をする、女遊びにはまると、破綻した人生を送る。
大学時代、筆者がNと呑んだ時、酔っ払った奴がまるで狐のような素振りで歩き回った事は忘れることができない。
お使いに、心を奪われたのであろうか。
狐ばばぁから、狐への崇拝を受け継いだのであろうか。
今はもう、狐ばばぁのあばら家も、跡形もない。
あのNの行方も、不明である。