三芳野神社は1457年川越城を築城するとき、城内に鎮護の宮として取り込まれた。
城の守護神となったものの、近在の者の信仰の対象でもあり、周辺の庶民の参詣はあとを絶たず、不審者を尋問する番兵と参拝者の間ではトラブルが多々生じたという。
その為、このような歌が歌われたらしい。
とりあえず、上記の説が有力だが、他にも
「江戸から逃げようとする出女を歌った歌」
「荒神に少女を生け贄にささげないといけない母親の心情を歌った歌」
「天神様の巫女に選ばれてしまった娘に会いにいく母親の歌」
「7才で死んでしまった娘に会うため、黄泉の国にいく母親の歌」
などがあげられ、歌詞の謎を深めている。
どうも童謡には、幼き女児が命を落としてしまう、或いは親元を離れてしまうという解釈がされがちである。
弱者である少女たちは、歌で主張・反論するぐらいしか表現方法はなかったのであろうか。