彼女の口から奇妙な話を聞いたのは、もう5年近く昔の事である。
彼女の実家は、河童に助けられた一族であるというのだ。
「河童に助けられたとはどういうことですか」
最初、その話を帰いたとき、筆者は素っ頓狂な声をあげてしまった。
無理も無い。いくらなんでも、日本昔話でもあるまいて。
河童を見たのならともかく、助けられたというのが、合点がいかぬ。
「そうですね、いくらなんでも突飛な話ですね」
そう言いながら彼女は語ってくれた。
彼女の話によると…。
実家は新潟で古くから続く農家であった。
昭和の頃は豊かな暮らしをしていたその家も、江戸期には貧窮した時期があった。
「どうしたら、いいのだ」
「まったくだ、また今年も水害でやられてしまうだろう」
江戸の頃、その村は水害に悩んでいた。
よく肥えた土地は、豊かな実りを約束してくれた。
だが…、毎年秋に起こる水害が全てを破壊していた。
「もう、おらたちの土地では、畑は無理かもな」
「どうしたら、いいのだろう」
悩む農民たちの相談に乗ったのが、旅の浪人であった。
その浪人は、ここ数週間、村に滞在していた男であった。
「もし、私の学問が役に立つのなら、お助けいたす」
浪人の言葉に人々は歓喜した。
「あのお侍の学問はきっとおらたちを救ってくれる」
「そうだ、そうだ」
村の人々は彼の知識に賭けてみたのだ。
「あんな侍の言うことなんか、当てにならない」
中には浪人を悪く言う者もいたが、浪人は懸命に働いた。
日々村をめぐり、地形を読み、地質を調べて廻った。
「必ずこの村を救ってみせる」
浪人は、その想いだけで動いていた。
農学や土木を学んでいた彼は、水害に強い作物を教え…。
決壊しやすい川に堤防を作った。
「これで今年の水害は乗り切れる」
浪人はそう言って、村人を励ました。
そして、迎えた水害の季節。
猛り狂う風雨、そして川の増水が村を襲った。
緊迫する人々。
だが、浪人には確信があった。
「大丈夫だ、絶対に堤防は持ちこたえる」
その信念は確固たるものであった。
見事に、浪人の予想は当たった。
堤防は村を洪水から守りきったのである。
「やったぞ、堤防が持ちこたえたぞ」
「もうおらたちの畑が水害でつぶされる事はないぞ」
「あの侍のおかげだ」
村に沸き起こる大きな歓声。
こうして、村人は浪人を全面的に信頼した。
そして、彼を疑っていた人たちもその見識を認めた。
「いや、おらが悪かった、お侍の学問は本物だ」
村人と浪人の幸せな日々はその後、長くは続かない。
あるとき、村の名主や主だったものが、代官所に呼ばれた。
実は、江戸で幕府転覆を図った浪人たちが捕らえられた事件があった。
「その一味のものが、若干名逃走しておるのじゃ」
名主たちの頭には、浪人の笑顔が浮かんだ。
あの侍はお尋ね人であったのか。
しかし、自分たちの村を救ってくれた浪人を差し出すわけにはいかない。
沈黙し、体をぶるぶると震わせる農民たち。
「その方たちの村に、怪しい浪人者がおったと聞くが…」
代官はとぼけ面で、庭でうずくまる農民たちに質問した。
「いえ、そのようなお人はおりませぬ」
村の名主が声を震わせて答えた。
代官は質問を続けた。
「では、あのような立派な堤防を築き、その方らを救った男とは何者じゃ」
この強い口調に農民たちは、総身を縮めたが、名主は勇気を振り絞った。
あのお侍の勇気に答えよう。
ここで負けてはならぬのだ。
名主は断言した。
「あの男は、河童でございます」
一瞬、代官の表情が固まった。
だが…破顔一笑。
次の瞬間、笑みが広がった。
「ほう、河童か、ならば仕方ない。藩には河童であると知らせておこう」
代官はそう言うと豪快に笑った。
農民たちは、何度も頭を下げながら、代官所をあとにした。
村を救った浪人。
そして、その情熱に応え、浪人を河童と言い張り、守りきった農民たち。
全てを知りながら、浪人と農民の気持ちに打たれ、河童と報告した代官。
古き日本の良さとは、このような互いを思いやる心遣いにある。
妖怪伝説とは、こんな使われ方もしているのだ。